Whle my guitar gently weeps 「it is'nt」

■題名:It is'nt 第1章 010節

 西暦19XX年。名門高校へ上から一桁台の成績で入学し、下から一桁台で卒業した僕は、有り余るエネルギーを何に向けたら良いのかわからずにいた。

 親には「有名大学を受験したいので、浪人して受験に向けて研鑽を積みたい」などと言ってはいたが、その実大学生になる気などさらさらなかった。社会人になるにあたって準備期間を設けるため進学するとか、まどろっこしい事をするより内在するエネルギーを一日も早く形に変えたいという欲求が渦を巻くように濃縮されていくが、その矛先が見つからず、グダグダとして日々を過ごしていた。

 6月。友人から電話があり「例の情報誌のはみだし欄に、お前が好きだと言っていた映画の製作プロダクションでスタッフ募集の記載があったよ」と告げられ、書店に走り雑誌を買うなり欄外情報をあさった末、連絡先を見つけて「情報誌を見て応募したいと思いお電話しました」と告げた。

 すぐに面接することになり、翌々日には中野にある事務所を訪問することになった。この時になにも不安を感じなかった自分に対して、後に「自身に内在するエネルギー以外何も持たない者は、ある意味強者なのかもしれない」と思うことになる。

 書店に行き、中野区のポケット地図を買い、所在地を確認して「明日はここに行くのだなぁ、いったい何が起きるのか楽しみだなぁ」と嬉々として履歴書を書いたことを覚えている。そして書き終えるとすぐに熟睡した。

 午後3時、灰色の空を見上げるとそこに指定されたマンションがあった。インターフォンを押してドアの鍵があけられ、入室するとそこは2LDKの居室であった。ダイニングテーブルをはさみ、山形氏はいた。20代なのに妙に頭が薄く、べっ甲縁の牛乳瓶の底のようなレンズがはまった眼鏡が印象的だった。

 応募の動機となった映画は、山形氏がプロデュースし、学生の岩井氏が脚本監督した作品だった。その後に掲げたプロダクションニトロは全員が学生で企業形態をとっておらず、誰かが出した企画を実現するために必要な人材をかき集めてアメーバのように適宜集合体を作り、作品を完成させる組織を目指していた。

 企画に対してスポンサーや配給先がつけばスタッフにはギャラが支払われ、つかなければお箱入りか自主製作という名の無償労働で映画が製作される。その時僕は無償でも映画を作りたいという情熱に対して、震えるほど共感した。それは共鳴と言ってもいいかもしれない。