It is'nt 第1章 070節

 実は僕が参加する前に、撮影はスタートしていた。それは主人公がリーゼントのまま演技をする場面だ。下着姿になる女優に配慮して最小限のスタッフで撮影されていたらしい。

 そのシーンは、これから起きるハイな世界に入る前の主人公が、彼女を責める場面であった。水商売の彼女は地元のヤクザのせいで薬漬けにさせられ、憤る主人公が彼女との口論のすえ勢いあまって殺害してしまうというもので、今思えば「あの女優があの頃はこんな芝居をしていたのか」と思うようなぶっきらぼうな口調だった。

 しかし、当時の僕にはプロフェッショナルとの差があることはわかっても「何が違うのか」を明確に定義することはできなかった。

 

It is'nt 第1章 060節

 いよいよ撮影が始まる。照明の熱で部屋は物凄い暑さだが、誰もが呼吸を止めたような感覚になる。時間の流れが徐々に遅くなり、監督の「スタート!」という大声が響き渡ると、主人公は徐々にポマードで固めたリーゼントを安全カミソリで耳の付け根からそぎ落としていく。

 そんなこと現実ではうまくいかない。

 当然カットは多くなり、リーゼントがモヒカンに変わるまで、30カットは獲っただろうか。驚いたのはその都度カメラの位置を変え、合わせて家具の位置も変えることだった。単純にカメラの位置や角度を変えるだけではなく、いかにも主人公が部屋の真ん中にいるように家具の配置も変えるのだ。

 本当にそれで上手くいくのかと疑問に思ったが、後にラッシュ(音なしの映像羅列)を見て「なるほど」と思ったものである。

It is'nt 第1章 05節

 この時、僕が考えていたことは、能動を誘導するか、受動に任せるかということだった。本ならば「どのようにして次のページをめくってもらえるかと、考えるところ。映画では、先に時間を設定しており、その時間にどのように楽しんでもらうか。面白いと思ってくれるか。。。  この差を埋めるにはどうしたらいいかというものだった。

 撮影初日。現場の6畳間に次々と機材が運び込まれる。照明、カメラ、音声などで電源が足りないため、隣の家に行き「すみませんが、電気を貸してください」などといったお願いをするのも僕の仕事だった。

 あらかじめ「監督が『ここにヤカンを置いてほしい』と言えば、近隣を訪問してヤカンを借りてくるのが君の仕事だ」と言われてはいたが、「電源確保できましたー!」と成果を報告しても褒められることもなく、各種コードを見えないように隠す作業や、家具の移動と掃除などの作業を次々と命じられる事に多少の物足りなさを感じたが、各部門のチーフの真剣な視線がそれを中和させていた。

 

It is'nt 第1章 040節

 帰宅して最初にするべきことは、自分の部屋に電話器を置くことだった。本屋でその手の本を読み漁り、電話機を並列させることができると知る。つまり1本の電話線に2台の電話機をつなぐことができるのだ。すぐに電話機と電話線を購入するため(今でいう)リサイクルショップ巡りをし、その日のうちに自室に電話を引いた。

 ※電話がかかってくると電話が2台同時に鳴る仕様

 翌日になると異なる人たちから5本ほどの電話がかかってきて、それぞれ「〇〇を手伝ってほしい」と言う。どうやら僕は「誰でも使うことができる、丈夫そうな男」という振れ込みが流れたらしい。交渉係、配線係、道路封鎖係、などなど様々な(どれも誰でもできる)役職を拝命することとなった。どちらかと言うと人から怖がられる風貌であったため、こんなに一度に頼りにされる(と思っていた)と、なんだがとても嬉しくなってしまい「なんだか良くわからないけど、燃えてきた頑張るぞ」という気持ちになったことを覚えている。

It is'nt 第1章 030節

 日本で唯一映画学科が存在する世界大学のまさにおひざ元の江古田で、僕の映画へのチャレンジは始まった。そこに居た監督は世界大学芸術学部映画学科在籍でありながら日本のメジャー配給会社に2本の映画を配給させた岩井氏であり、プロデューサーは照治大学映研の山形氏、助監督・美術・照明は岩井氏と同じ映画学科の織田氏・小神氏・手塚氏、製作はOK大学の小塚氏という、全員学生ではあるものの(後になって知ったが)蒼々たるメンバーだった。

 無知とは時として、恐ろしく強いモノでもある。

 僕はおくびもせずに「無職の千葉です。高校卒業してまだ18歳です。くだんの情報誌を見まして応募させていただきました。どこに座ったらいいっすか?」と言うと、山形氏と岩井氏の間に割り込んで座った。

 180センチ76キロのやせ型ではあったが、格闘技有段者でもあり割と低めの声で話す僕の挙動に、一同は多少唖然とした様子だったが岩井氏から「映画のことは見るだけで何も知らないというのは間違いない?」と尋ねられ素直に「はい」と答えると、台本を読んだ確認の後に、すぐに打ち合わせが始まった。

 原作は有名漫画家の短編小説であること、役者は劇団員2名がほとんどで、撮影する部屋は誰の部屋、走行シーンのルートはここ、冒頭でリーゼントをモヒカンにそり上げるシーンがあるので、床屋の協力を得ること、モノクロなので血糊は赤ではなく黒、などなど。皆で台本に必要な事項を書き込んでいく。この時、映画製作にはスチルという販促用の写真を撮影する専門家や、記録と呼ばれる服装や家具の配置などが別カットと食い違わないようにチェックする係がいることを初めて知った。

 僕の役割と言えば、「とりあえず撮影時は遊撃として、誰の支持にも従う係をやってくれ」と言われた程度だった。その打ち合わせの際の彼らの表情のシビアさに、なんだかもうメンバーの一員になれたような、全然相手されていないような、不思議な気持ちになったが「ここから始まるのだ」という全身を引き締めるような感覚のまま帰路に就いた。

題名:It is'nt 第1章 020節

 「やる気だけはあります!しかし、何をやったら良いかが全く分かりません」と素直に告げると山形氏は「ではアシスタントとして私か岩田監督に付いてもらうことになると思います」と言い、続けて「現在は16ミリモノクロフィルムで撮影する短編の企画を進めている」主旨の説明をしてくれた。

 「顔合わせなどの調整をして改めて連絡するので読んでおくように」と台本を受け取り「ありがとうございました。失礼します」とドアを閉めた。すぐに「あれ? 採用ってことだよな」と思うと同時に、それまで腹の底にたまっていた何かが頭を突き抜けるような感覚を得た。「とにかくこれを読もう、そしてこの文字列を映像にするには何が必要なのか考えよう」と帰りの電車のなかで台本の表紙に書かれた取扱注意の文字を恨めしく思った。

 某有名映画監督の「音楽を全く入れない、そして主人公を走らせない条件で観客を感動させる事ができれば、それは普及の名作となる」という発言にインスパイアされたもので、ラストの一瞬を除いてまったくの無音で構成される映画であった。ただし、30分程度の劇中で主人公の二人はほとんどの時間走り続ける。

「音楽を入れない」をセリフや効果音などをまったく入れないことに置き換え、その代わり「主人公を走らせない」を徹底的に走らせるに置き換えた実験映画といえる内容だ。

 しかし何度読んでも「自分が何をできるか」が全く想像つかない。どうしようかと悩んでいるうちに、黒電話が鳴り、すぐに顔合わせのため江古田にある大学近くの居酒屋へ行くことになった。

 小一時間かけて待ち合わせの場所に行くと、プロデューサ・監督・助監督・美術・音響・製作といった主要メンバーがすでに酒盛りをしていた。山形氏の「おぉ! 新しく入った千葉ちゃんや~!」と言うと残りの全員がギロリと睨みつけた。

Whle my guitar gently weeps 「it is'nt」

■題名:It is'nt 第1章 010節

 西暦19XX年。名門高校へ上から一桁台の成績で入学し、下から一桁台で卒業した僕は、有り余るエネルギーを何に向けたら良いのかわからずにいた。

 親には「有名大学を受験したいので、浪人して受験に向けて研鑽を積みたい」などと言ってはいたが、その実大学生になる気などさらさらなかった。社会人になるにあたって準備期間を設けるため進学するとか、まどろっこしい事をするより内在するエネルギーを一日も早く形に変えたいという欲求が渦を巻くように濃縮されていくが、その矛先が見つからず、グダグダとして日々を過ごしていた。

 6月。友人から電話があり「例の情報誌のはみだし欄に、お前が好きだと言っていた映画の製作プロダクションでスタッフ募集の記載があったよ」と告げられ、書店に走り雑誌を買うなり欄外情報をあさった末、連絡先を見つけて「情報誌を見て応募したいと思いお電話しました」と告げた。

 すぐに面接することになり、翌々日には中野にある事務所を訪問することになった。この時になにも不安を感じなかった自分に対して、後に「自身に内在するエネルギー以外何も持たない者は、ある意味強者なのかもしれない」と思うことになる。

 書店に行き、中野区のポケット地図を買い、所在地を確認して「明日はここに行くのだなぁ、いったい何が起きるのか楽しみだなぁ」と嬉々として履歴書を書いたことを覚えている。そして書き終えるとすぐに熟睡した。

 午後3時、灰色の空を見上げるとそこに指定されたマンションがあった。インターフォンを押してドアの鍵があけられ、入室するとそこは2LDKの居室であった。ダイニングテーブルをはさみ、山形氏はいた。20代なのに妙に頭が薄く、べっ甲縁の牛乳瓶の底のようなレンズがはまった眼鏡が印象的だった。

 応募の動機となった映画は、山形氏がプロデュースし、学生の岩井氏が脚本監督した作品だった。その後に掲げたプロダクションニトロは全員が学生で企業形態をとっておらず、誰かが出した企画を実現するために必要な人材をかき集めてアメーバのように適宜集合体を作り、作品を完成させる組織を目指していた。

 企画に対してスポンサーや配給先がつけばスタッフにはギャラが支払われ、つかなければお箱入りか自主製作という名の無償労働で映画が製作される。その時僕は無償でも映画を作りたいという情熱に対して、震えるほど共感した。それは共鳴と言ってもいいかもしれない。